某鞄屋を辞め、ひょんな事から名古屋に少し行っていました。この時の出会いは良い出会いも悪い出会いもどちらもでしたね。
なので、また気が向いたときにでも書きます。
名古屋にいるときから、スーツ、シャツの工場、職人との出会いを求めしょっちゅう大阪、京都に戻っていましたね。
そして、しばらくして修理屋さんの紹介で、スーツのメーカーさんと出会いました。まぁ、間が入っての商売です。
右も左もわからなかった僕。今でこそ、えらそうに話していますが、英国の生地ブランドの名前なんかほとんど知らないし、
生地の特性やスーツの型紙、縫いなんて全く分からんかった時です(笑)仮縫いの補正なんかも、メーカーさんの人に適当に
教えてもらい、ほんま適当に着せ着けしてました(汗)シャツもそうですね、何かおもろい生地、タイトなデザイン。
この頃は、ほんま無知やった〜〜〜(笑)2000年9/25にオープンした時のスーツで思い出すのは当初は、まだテーパードとフレアーの狭間にいた事。そして、えらい衿が小さかった事ですね。この当時、僕もかなりフレアーに抵抗があって、ウールの生地はテーパード、綿の生地はフレァーと分けていましたね。
展開してた靴は、仮縫い付き(本番の革)の木型に乗せ甲する補正のオーダーで注文を取っていました。
当時は、オリジナルの木型の製作に意欲がなく、関さん個人の所有する木型をベースにさせてもらってました。
皆さん九分仕立てのグットイヤーがほとん。出し縫いの糸の色変えたり、ハンドステッチの装飾をしたり、まぁ当時から関さんには少し変った靴を作ってもらっていました。
既製品のテント地のジャケットとパンツ(セットアップ)を展開していて、これが凄く売れたのを思い出します。今でも大事に着てくれているお客さんにも最近会い、少し恥ずかしさ気分にもなりましたね(笑)
で、このときに靴での一回目の転機が訪れます。普通のグットイヤーウエルトでは、何か飽きてきたんですね。パンツの裾も本格的にフレァーに移行すると、靴のボリュームが足りない気がしてきて(笑)で、ノルベジェーゼを主流としていました。三本のチェーンステッチ。これを糸染めしてもらい色んな色の組み合わせを楽しんでいました。積み上げの形状を変えたり、つま先の形を革をパテ代わりに張って色んな形を提案してました。かなり個性的なトゥを作ってましたね。そのときに、今のうちの木型(sin-3)のベースが出来上がりました。隠し縫いのセンターレースのブーツ、サイドレースブーツ、バンプと色々
考えて提案してましたね(笑)
今でこそ華奢もんの靴ですが、当時は全く逆で、ノルベの結構インパクトのある剛の靴とでも言いましょうかそんなの展開していました。
関さんの靴は、どんどん手の込んだ靴が出来上がって来るのに、スーツは全然これ以上、上は望めない。それが僕のジレンマでした。メーカーにハンドの部分をもっと加えてくれとか、もっとこうならんのかと投げかけるものの、今はこれが精一杯ですの返答のみ。
これが、どうしても我慢ならず色々職人さんを探していた所で、僕の友人の方が一人の職人さんを紹介してくれました。
それが僕の師匠になっていただいたわけです。
まぁ、今までの機械縫製のスーツとの着心地の違いにびっくりしましたね。そして縫い方の違い。八刺しをまじかで見たり、穴かがり、衿つけ、まぁこんなにも違うものかと思いました。28歳にして何とも無知な自分が悲しくなりました。スーツの誂え屋をいきって出したのにも関わらず、こんな事も知らん自分が・・・・。
師匠の所へ仕事を持っていって、師匠の仕事を見る!衝撃でしたね。
これなら関さんの靴に負けないスーツが出来る!!!これで、完璧やなんて思っていました(笑)
それで、しばらくして以前に作った機械縫製のスーツすべて処分しました。
これが一回目の改革です。
こんときくらいからですかね、スーツの衿がでかくなって行ったのが(笑)靴のインパクトに衿が小さいと負ける。足下と胸元にインパクトみたいな感覚が自分の中で芽生えて、8~8.5cm位の衿から一気に2~2.5cm位大きくなりましたよ(笑)
そして、師匠と知り合ったその年の11月から、僕のスーツ修行が始まったわけです。